2019/09/18

キヤノン

昭和9年(1934年)6月号の「アサヒカメラ」に新しい国産カメラの広告が載った。ライカⅡ型に似た一台の黒塗りのカメラの写真があり、その背後にはKWANONの文字が浮いている。そして「潜水艦はイ号、飛行機は92式、カメラはKWANON、みな世界一」のキャッチフレーズが大きく入っている。広告主は精機光学研究所とある。これが今日のキヤノンの広告の第一号である。
今、映像・情報関連機器の世界有数の大メーカーであるキヤノンは、一人の男の意地から生まれた。その男は吉田五郎である。
吉田五郎がパートナーとして選んだのは、妹の夫である内田三郎であった。内田は証券業界の人で、カメラには全くの門外漢であったが、知己のあった鮎川義介が常々主張していた「日本は資源が乏しいのだから、頭脳と高度な技術を要する事業こそ目を向けるべきだ」という言葉に背を押されて、この未知の仕事に飛び込んだ。鮎川義介はいうまでもなく、初期において日産自動車を育てた日産コンツェルンの総帥である。
こうして昭和8年(1933年)11月、東京市麻布区六本木62番地の竹皮屋ビル3階のアパートに精機光学研究所が設立され、少数の工作機械を据えてカメラの試作が始められた。
この新しいカメラにはカンノンというブランドネームが与えられた。これは吉田が観音(観世音菩薩)を信仰していたからで、マークには千手観音が描かれた。同様、レンズはブッダの弟子マハーカシャパ(大迦葉)に因んでカサパ(Kasyapa)と名づけられた。このカンノンがキヤノン(Canon)と改められ、昭和10年(1935年)9月19日に商標登録される。
吉田は昭和9年(1934年)に精機光学を去るが、カメラの試作は続けられた。ようやく昭和11年(1936年)2月に至り最初の市販型、いわゆるハンザ・キヤノンが発売される。ハンザはキヤノンの発売元を引き受けた近江屋写真用品㈱の商品名である。そしてこのハンザ・キヤノンに装着されていたレンズは、日本光学工業製のニッコール50mm F3.5であった。
精機光学ではボディやシャッターなどの機械加工はできたが、レンズやファインダーなどの光学系には手が回らなかった。そこで内田三郎が当時日本光学の監督官を務めていた海軍士官の実兄に相談、当時軍需産業一辺倒から民需生産への進出を模索していた日本光学が協力することになった。日本光学が受け持ったのはレンズ、ファインダーのみならず、レンズマウントにまで及んだ。
わが国最初の35mm、距離計連動、フォーカルプレーン・シャッターの高級カメラの価格はレンズ、フード、マガジン2個、フィルムスプール、革ケース付きで275円であつた。275円は当時のライカⅡ型50mm F3.5エルマー付き420円の2/3であった。ハンザ・キヤノンは翌年、物品税が20%に引き上げられたのを機に350円に値上げされる。
昭和13年(1938年)にはスローシャッター付きで、フィルムカウンターが軍艦部の巻上げノブの基部に移ったキヤノン「最新型」が、ニッコールF2付き550円、同F2.8付き480円で発売される。この最新型に対しハンザ・キヤノンは「標準型」と呼ばれた。
昭和14年(1939年)、距離計とスローシャッターの無い「普及型」がニッコールF4.5付き195円で発売された。この普及型で初めて直径39mm、ピッチ1mm、フランジバック28.8mmのスクリューマウントが採用された。しかし、ライカ・スクリューマウントにしようとしたものだが、ピッチが合っていない。このため最初のキヤノン・スクリューマウントはライカと互換性が無い。それが修正されるのは第二次世界大全後になってからになる。
日本光学からレンズ設計者の古川良三が精機光学に移籍、昭和17年(1942年)以降キヤノン独自の一連のセレナー・レンズが作られていくことになる。
終戦後昭和21年(1946年)から戦前型の生産を再開するが、その年の10月には早くも初の戦後型SⅡがデビューする。SⅡは軍艦部左側の距離計窓にビューファインダーを一体化した一眼式とし、矩形の窓と円型の窓を持つ戦後型キヤノンの典型的なスタイルが完成した。
昭和24年(1949年)、キヤノンがライカ・コピーから脱却し、一歩先を行くことになる大発明がⅡB型で実現された特許の三段変倍ファインダーである。
以後キヤノンはこのⅡBを基に、シャッターが1/500秒までのⅡ型、1/1000秒の付いたⅢ型、それにシンクロを加えたⅣ型の3系列で細部をリファインしつつ発展していく。
1954年のライカM3発表後の昭和31年(1956年)に導入されたのがVTである。シャッターこそ2軸で高速ダイヤルは回転したが、ボディダイキャストは裏蓋開閉式に一新され、当時大流行した工業デザインを採り入れて、モダンですっきりした形になった。キヤノンとしては初めてセルフタイマーも付き、VTでは迅速巻上げの底部トリガー方式が採用された。VTは翌年巻き戻しをクランクに改めてVTデラックスとなり、すぐにシャッター幕が太陽光による焼損のないステンレス薄膜に改められる。
昭和32年(1957年)には底部トリガーを上部レバー巻上げとし、セルフタイマーと1/1000秒を取り除いた普及機としてL2が登場。さらに2ヵ月後、1/1000秒を加えたL1が発表され、通産省選定の初のグッドデザイン賞に輝く。L系にはシンクロを取り除いた更なる廉価版L3、メタル・フォーカル付の最高級型VL、その簡略版VL2などが次々に生まれる。
レンジファインダー・キヤノンの究極的なモデルは昭和33年(1958年)に発表されるトリガー巻上げのⅥTとレバー巻き上げのⅥLである。シャッターは遂に一軸不回転となり、クリックオンのセレン露出計と連動可能になり、変倍ファインダーはパララックス自動補正式になった。このⅥシリーズに至って、キヤノンは既にMライカを凌駕したといっても過言ではなく、価格的にも、50mm F1.2付で10万円の大台に限りなく近づいた。
しかし既に35mm高級機は一眼レフ時代に入っており、距離計連動機は次第にそのサブカメラとしての道を歩み始めていた。
昭和34年(1959年)変倍ファインダーを止めて廉価版とし、ポピュレール(P)の名でⅥLの普及機を出した。

(日本のカメラ P88、91)