2019/08/30

アグファ (ドイツ)

アグフアの歴史は1867年C.A.マルチウス博士とP.メンデルスゾーン・バートルディ博士によってベルリンにゲゼルシャフト・フュア・アニリンファブリカチオン(染料工場の意)が設立されたことから始まる。1873年社名がAktien-Gesellshaft fur Anilinfabtikationとなり、この頭文字をとりAGFAと呼称されるようになった。
アグファはやがて優れた現像液の開発に成功し、市場でも高い評価を得て、この製品を足がかりにして写真フィルム、映画フィルムなど他の写真関連製品の開発・販売へと事業は拡大していった。
写真の発展に関しては、カラーフィルム技術で世界初の多層発色式反転フィルム(コダクローム以外の全てのリバーサルフィルムの基本方式)アグファカラー・ノイを1936年に発売し、同じ年1936年にこれまた世界初のネガからポジカラープリントを得る写真方式(内式多層ネガ・ポジカラー写真プロセス)を開発、1939年からアグファカラー・ネガフィルムを販売、先駆者として多大な功績を残している。
カメラ製造に関しては、1925年に1900年から各種のフォールディング・カメラを製造していたミュンヘンのリーチェル社を買収し、カメラ事業に参入する。以後アグファ名のカメラが製造されることになる。1928年にはアメリカのカメラメーカーであるアンスコ(1902年設立)とニューヨークにアグファ・アンスコ社を設立し、米国ではアンスコ名でアグファ製のカメラを多数販売した。
アグファ自体は1925年に、第二次大戦前ドイツ最大の世界的化学工業トラストであったイー・ゲー・ファルベン(I.G.Farben)社の傘下に入る。これは当時のアグファを含むドイツ6大化学工業会社の合同により生まれた会社で、ナチスドイツの隆盛とともに1930年代に大発展する。しかしファルベン社は戦後占領軍の手によりバイエル、BASF、ヘキストなどの5社に再編された。アグファは米軍占領地ミュンヘンのアグファカメラ、英軍占領地ベルクーゼンのアグファ写真紙工場、ソ連占領地ヴォルフェンのアグファフィルム工場に分割される。この東独の組織は人民公社ヴォルフェンフィルム工場などに名前を変え、東西ドイツ統合まで存続した。西ドイツの2社は1952年バイエル社の傘下に入り、1957年には合併してアグファ㈱となる。このアグファ㈱は1964年ベルギーのゲバルト写真製造社(1894年創立)と事業を統合し、レベルクーゼンに本社を置くアグファ・ゲバルト社(西ドイツ)とアントワープに本社を置くアグファ・ゲバルト社(ベルギー)が設立された。これは事実上の合併であったが、ベルギーでは外国企業との合併が禁止されていたため、二つの合弁企業が設立されたのであった。これにより、ヨーロッパ隋一の総合写真メーカー、アグファ・ゲバルト社が誕生した。
その後、1981年にバイエル社が100%株式を取得してから1999年までは、世界的な総合化学・医療品会社として知られるバイエルグループの一員として活躍した。1999年には株式を上場して、現在もヨーロッパを代表する会社であるが、写真産業のデジタル化によりフィルム事業を2004年に売却し、アグファフォト社が設立された。しかしこのアグファフォト社は2005年に倒産した。

1982年アグファはカメラ製造から撤退。しかしその後1990年代にレンズ付きフィルムのブームが到来すると、それに対応したカメラを販売。
APSフィルムを使用したシリーズがイージー(Easy 1996~)、35mmフィルムを使用したレンズ付きフィルムがレボックス(LeBox)のシリーズだった。
2005年(平成17年)5月にアグファはフィルム事業が破綻、破産の申し立てを行い、2005年12月末をもってフィルム事業を継承していたアグファ・フォト社は会社を清算した。

(世界ヴィンテージ・カメラ大全 P78
写真工業 2006年3月 Vol.64 №683)