2019/09/18

ハーフサイズカメラについて

「オリンパスペン」が登場する以前にも古くから35mmフィルムを使い、「ハーフサイズ」(18×24mm判)を採用したカメラはあった。
ライカが1925年に発売する以前にも既に35mmフィルムを使うカメラが存在していたが、これらの中にはもともとの映画の一コマのサイズである18×24mm判を採用していたカメラが多かった。撮影枚数が多く取れるのを特徴としたものであった。

1913年 アメリカの「ツーリング・マルチプール」は750枚撮り
1914年 アメリカの「シンプレックス・マルチ・エクスポージャー」は24×36mm判との切り替えができるカメラであったが、18×24mm判の場合800枚の撮影ができた。
1915年 ドイツの「ミニグラフ」は50枚撮り
1922年 ドイツの「エスコ」(17×24mm判)は400枚撮り
1924年 フランスの「ル・サンビュー」は100枚撮り
1924年 アメリカのボックスタイプ「アンスコ・メモ」は50枚撮り
後のラピッドシステムの元になるようなフィルム給送方式で、専用カセットに入れた35mmフィルムを使った。
1940年 アメリカの「アグファ・メモ」
ラピッドフィルムの原形といえるカセット入りの35mmフィルムを使う折りたたみ式カメラ。
1933年頃 プラスチックボディの「コレレK」がドイツで発売
1938~1952年 イタリアの「ドゥカティ」というライカ型18×24mm判の一連のモデルが出ている。専用のカートリッジに詰めた短尺の35mmフィルムを使う15枚撮りカメラであった。

戦後の日本でアメリカの進駐軍が胸にぶら下げていた「マーキュリーⅡ」(1945年)もこのサイズのカメラであったが小さいカメラではなかった。
「オリンパスペン」登場の前年、1958年に東ドイツから「ペンティ」が登場。このカメラはかなりコンパクトで、ハーフサイズカメラのイメージに近かった。フィルムはカラート・カセット入りの35mmフィルムで24枚撮り。
ライツ社は、特殊型として1951年から63年にかけて、古い「Ⅲa型」のボディを使った18×24mm判の「ライカ72」を200台あまり生産した。
以上のうち、標準の135判フィルムを使うカメラは「マーキュリーⅡ」と「ライカ72」であった。
1959年春に35mmレンズシャッターの「コニカM型」が登場。コニカⅢ型のフロントレバー2回巻き上げの1回巻上げがちょうどハーフサイズになることを利用して、ハーフサイズの撮影を可能としたカメラで、「オリンパス・ペン」より早く出ていたがペンとは性格を異にするカメラであった。

ペンから始まり「ペンS」「ペンEES」と展開した「オリンパス・ペン」のスタンダードなシリーズを中心に、各社のモデルを加えた製品群がハーフサイズの本流と考えられる。
市場からの要望にも応え、大口径を装備した「ペンD」(1962年)を発売、「D2」(1964年)「D3」(1965年)「EED」(1967年)と続く。
1964年には「キヤノンデミS」「ミノルタレポS」「ヤシカ・ハーフ17」「コニカ・アイ」などと各社が大口径レンズ付の高級モデルを作り「フジカ」「リコー」も加わった。
これらの中で、1965年に発売された「ヤシカ・エレクトロハーフ」と「オリンパス・ペンEM」は初めての電子シャッター式AEカメラとなった。「ペンEM」はモータードライブ式カメラでもある。
「キヤノン・ダイヤル35」(1963年)は縦型配置(横長画面)のカメラで、スプリング巻上げを採用。1961年に発売された「ヤシカ・ラピード」「タロン・シーク」も縦型配置の形態のユニークなカメラである。
1962年登場の「ヤシカ・エクセル」は最も早くモーター巻上げを採用したカメラで縦型ボックス・スタイルの、ちょうどムービーカメラのような形態をとったカメラであった。
ハーフサイズカメラは1980年代に、カメラ研究家でありデザイナーの水川繁雄さんのいう「やや小さなルネッサンス」があった。小型の画面を利用して開発されたユニークなカメラが登場した。1984年のディスクカメラタイプの「コニカ・レコーダー」、1985年の初の2焦点カメラ「フジカ・ツイングTW3」さして1987年の「サムライ」である。

[カメラの歴史散歩道 P220、338]