世界に日本のカメラとレンズを見直させたニコン
日本光学工業㈱の創業は大正6年(1917年)。当時軍備増強に躍起だった軍部の「光学兵器を自給したい」という要望に応じて、三菱合資会社社長の岩崎小弥太の主唱によって設立された。既に陸海軍の要請で光学兵器の研究を進めていた三つの工場を統合する形でスタートした。
大正10年(1921年)にドイツからランゲ博士をはじめとする8名の光学技術者を招聘、翌年には早くも光学ガラスを製造し、光学製品を一貫生産するメーカーとしての基盤を築いた。8名のドイツ人技術者のうち、ハインリッヒ・アハトは他の7名の帰国後も昭和3年(1928年)まで7年間日本に滞在して日本人技術者の指導育成に当たり、特に昭和に入ってからは製版用を含む各種写真用レンズの設計を行った。中には軍の要請で造られたフリーガー・オブジェクティブ(航空カメラ用レンズ)500mm F4.8などもあった。それらは次々と改良され、昭和7年(1932年)には50mmから210mmに至る7本のカメラ用レンズのラインナップが完成。それらに初めてニッコールの名が冠せられた。中でも50mm F3.5のニッコールはキヤノンの最初の量産型ハンザ・キヤノンに標準レンズとして供給された。
終戦から半年経った昭和21年(1946年)4月、ようやく双眼鏡と測量機の生産に着手した。次いで将来の主力製品としてカメラが選ばれ、まずオシロスコープ撮影のできる二眼レフが企画された。当時は自分でアンプを作るアマチュアが少なくなかったからである。しかし設計が完了した段階で適当なレンズシャッターが得られないことが判明、二眼レフ案は破棄された。
そして最終的に35mmの万能カメラでいくことになり、フォーカルプレーン・シャッター付きで距離計連動、レンズ交換という基本スペックが決定された。そのカメラはニッコール・レンズを使う小型カメラという意味でニコレッテと呼称されていたが、まもなくより短くストレートなニコンに改められた。
昭和21年9月に設計が完了、早速試作機をテストしたが、各部に不具合が見つかり、中でも最大のものは漏光であった。
昭和22年(1947年)改めて図面を引きなおし、その年の11月に4台の試作機が造られた。これが合計658台造られたニコンⅠ型である。
(日本のカメラ P100)