昭和15年(1940年)、青年実業家の菅原恒二郎が出資して経営に当たり、発明家の間宮精一が顧問として技術を提供するという形で、東大農学部前の東京市本郷区東方町にマミヤ光機製作所が設立され、後にⅠ型と呼ばれる最初のマミヤシックスの生産が始まる。軍艦部の一眼式連動距離計の二つの対物窓の間に反射ファインダーを置いたユニークなスタイルで、K.O.L.75mm F3.5レンズと1~1/200秒までのN.S.K.ラピッド・シャッターを備えていた。
間宮精一は父の金庫製造会社を受け継ぎ、1926年に日本で初めてキャッシュレジスターを開発し、販売は順調であったが藤原愛一郎の資金援助を受けて日本金銭登録機の会社を設立して事業化していたが、同時に1931年の「ライカ倶楽部」設立に参加した、懸賞荒らしとしても知られる写真作家であった。
このマミヤ光機製作所は、間宮の理想とする新しいカメラ(画面サイズが大きく、縦横画面によって持ち替える必要が無い6×6cm判フィルムを前後に動かす機構を連動距離計と関連させて使いやすくした)を作り出すための会社で、会社設立から4ヵ月後の1940年9月マミヤシックスⅠ型の試作機は、この時代になじんだ英文タイプライターのインクリボンの前後運動からフィルムを動かしてピンと合わせをする方式を思いつき、「バックフォーカシング」と呼ぶ新しい距離計連動機構と、当時としては珍しい自動巻き止めを装備して完成。このマミヤ式スーパーシックスと間宮の技術に惚れ込んだ写真仲間の菅原恒二郎は間宮と共同経営の新会社マミヤ光機製作所を設立。マミヤシックスの生産が開始されたのは1939年(昭和14年)であった。試作機の設計は津倉博技師で、戦後の「マミヤシックス」の主力設計者で、特に歯車光学に造詣が深く、故障が少ないと定評のあった巻き止め機構は同氏の最も得意とする分野であった。当時の「マミヤシックス」の設計メンバーは、その他に距離計の光学系と一部の機構部担当の入沢久仁男、マミヤ初めての巻き止め機構の無い普及機K型を設計した安達弘であった。発売時のマミヤシックスの定価は、10割の物品税込みで248円にもなったので、マミヤシックスは予約を取ってから販売する方法を採用した。ところが、これがかえって人気を呼び、また他に購入できるカメラがなかったこともあって、一般ユーザーだけでなく官公庁や警察の備品の注文も殺到したという。1940年11月に最初の61台が顧客の手に渡った。
当時、テッサーとコンパーラビットが付いたスーパーセミイコンタは510円、スーパーイコンタは570円、テッサーF2.8付スーパーシックスは655円もしていた。
国内では、距離計の無いセミパールが105円だった。
第二次大戦後のマミヤシックスは、オリンパスから3群4枚テッサー型、Dズイコー75mm F3.5の供給を受け、セイコーのシャッターを組み合わせて装備するようになった。一方、マミヤ光機は昭和23年(1948年)にレンズを自給するべく世田谷区新町に世田谷工場を建設、それは2年後世田谷光機として独立、昭和38年(1963年)に再びマミヤと合併する。同工場からは一連のセコール・レンズが生まれ、コパル製シャッターとの組み合わせでK、K2、Pなどの普及機に用いられた。
昭和24年(1949年)以降はレンズシャッター式の35mmカメラやプレスカメラも生産、さらにはレンズシャッターとフォーカルプレーン・シャッターの35mm一眼レフや16mmカメラ、8mmカメラも造ったが、それらは地味な存在であった。
それに対して一連の二眼レフは、マミヤシックスとともに今日のマミヤを築いた重要な製品である。終戦から4年目の昭和24年(1949年)には、7年の歳月をかけて開発されたマミヤフレックス・オートマットAが発売される。
しかし、何といっても特筆されるのは昭和32年(1957年)末に発表されたレンズ交換式の二眼レフ、マミヤフレックスCプロフェショナルである。
マミヤは販売を任せていた大沢商会が倒産したとき、側杖を食って経営の危機に瀕したことがあるが、この世界的なブランドの消滅によって日本製品の信頼が失われることを恐れた国の斡旋で、銀行によって救済され、1992年に釣具メーカーのオリンピックと対等合併し、1993年にマミヤ・オーピー㈱となり、釣具、スポーツ用品、電子機器、オプトメカトロニクス分野技術も含めた企業活動の一環としてカメラ事業も進められたが、マミヤブランドのカメラを製造・販売していたマミヤ・デジタル・イメージングは2015年末デンマークのフェーズワン会社に買収され、マミヤのブランドは消えた。
(写して楽しむクラシックカメラ2 P148、日本のカメラ 118
カメラレビュー クラシックカメラ専科 №74 P87
カメラの歴史散歩道 P322)