2019/10/16

ヤシカ/京セラ

今日の京セラ㈱光学機器事業部の全身は㈱ヤシカで、昭和58年(1983年)京セラの一部門になったものである。
ヤシカは戦後派のメーカーで、昭和24年(1949年)八洲精機製作所の事業を引き継いで設立された八洲精機㈱がその前身である。同社は東洋のスイスといわれ、時計やオルゴールなどの精密機器工場が集中していた長野県諏訪市にあり、初めは電気部品や時計部品などの精密加工を生業としていた。
昭和28年(1953年)、社名を改めた八洲光学精機㈱は、いよいよカメラの製造に着手する。因みにヤシカはヤシマのカメラに由来する。最初の製品は写真用品の販売会社エンドー写真用品の注文によるローライコード型の二眼レフ、ピジョンフレックスであった(エンドー写真用品は上伊那の信濃光機製のピジョン35の発売元でもあった)。それを追ってすぐに自社ブランドのヤシマフレックスBを出し、発売直後にヤシカフレックスBと改名する。
昭和29年(1954年)にはヤシカフレックスSと同Aを発売する。S型はネームプレートの裏にセレンの単独露出計を組み込んだもので、国産二眼レフとして初の露出計内蔵機となった。以後ヤシカは次々と露出計内蔵の二眼レフを造り、この分野でのリーダーとなっていく。また、その過程で蓄積された電子技術は昭和41年(1966年)ヤシカ・エレクトロ35に結実し、コンタックスRTSへと連なっていく。
ヤシカ4×4を発売した昭和33年(1958年)八洲光学は㈱ヤシカと改名、レンズシャッター付きの35mm距離計連動機ヤシカ35を発売する。同じ年、ヤシカはニッカ・カメラを吸収。ニッカ・カメラは昭和15年(1940年)に設立された光学精機を発端とするカメラメーカーで、最初のニッポン以来一貫してライカ・コピーを造ってきた会社である。ヤシカはニッカの吸収でフォーカルプレーン・シャッターの技術・ノウハウを手に入れ、一眼レフの開発に繋がった。
昭和48年(1973年)ヤシカの技術力を見逃さず、カール・ツァイスが提携を結び、ここにポルシェ・デザインのコンタックスRTSが誕生することになる。
(日本のカメラ P129)

[ズノー光学工業の吸収合併]

一眼レフの量産機として初めて自動絞りを内蔵したのは、1958年ズノー光学工業が発売した「ズノー」である。ズノー光学はもともと日本海軍の委託を受け、超大口径レンズを開発するなどしていた帝国光学研究所をルーツにしていて、レンズ設計のノウハウはあったが、カメラ量産の経験に乏しかった。ズノーは「能の精神を形に込めた」といわれるGKデザインのスタイリッシュな形をしていたが、肝心の自動絞り機構に不具合が多く、ほどなく撮影後すぐに開放に戻らない半自動絞りに仕様変更され、1961年には会社自体が倒産、ヤシカに合併された。
(図解カメラの歴史 P100)

[ニッポンカメラの吸収合併]

ライカやキヤノンなどの修理・改造を行うために、1940年(昭和15年)に設立された光学精機社が始まり。1942年(昭和17年)軍部からの要請でライカコピー「ニッポン」を製造して陸海軍に販売した。また夜間戦闘機「月光」に電探撮影用に距離計を持たない「ニッポン」が装備された。
戦後1948年(昭和23年)社名をニッポンカメラとして、1951年(昭和26年)にはニッカカメラに改称する。一貫してライカタイプのフォーカルプレーンシャッターカメラのみを製造していたが、八洲光学精機(ヤシカ)が買収し、大邦光学に名称変更、1968年(昭和43年)にヤシカが完全に吸収合併した。
ヤシカは、ニッカカメラの吸収により、フォーカルプレーンシャッターの技術が導入できたことで、一眼レフの製造、コンタックスRTSの開発へと繋がっていく。
(写真工業 2005年10月 Vol.63 №678 P82)