2019/09/23

AE-1 1976年


一眼レフの大衆化に一役買ったキヤノンの世界的ベストセラー機。「連写一眼」のキャッチコピーで発売された。当時、一眼レフといえば、プロ用機材であり、中級機種でもハイアマチュアの世界のものであった。
FTb、FTb-NとTTLマニュアル測光一眼レフを産み出し、普及用一眼レフの市場を広げてきたキヤノンは、設計の根本から見直し、手軽に使える高機能カメラの開発に挑戦。
5大ユニットと25の小ユニットをマイクロコンピュータが中央集中制御するAE-1は、思い切った電子化により部品点数を大幅に削減、ボディカバーをプラスチック化して軽量化。従来機種より約300点の部品削減に成功した。生産体制も自動化して、高機能でありながら低価格の一眼レフが誕生した。

マウント:FDマウント
シャッター:4軸式、布膜横走行フォーカルプレーン。B、2~1/1000秒
ファインダー:ペンタプリズム固定式、視野率上下93.5%、左右96%、倍率0.86倍
指針で絞り値表示
露出方法:TTL開放測光シャッタースピード優先式AE。
TTL絞り込み定点合致式マニュアル測光。SPD素子
シンクロ:Ⅹ(自動切換え式、X接点の同調秒時1/60秒、
ドイツ型ソケット、ホットシュー)
フィルム巻上げ:レバー式。ワインダー対応
バッテリー:4LR44または4SR44
大きさ・重さ:141×87×47.5mm、590g(ボディのみ)
底部は真鍮製だがトップカバーはプラスチック製。
発売時価格:50,000円(ボディ)
55mm F1.2 100,000
50mm F1.4 81,000
50mm F1.8 71,000

AE-1は、それまでのTTLマニュアル測光の35mm一眼レフカメラを、一気に自動露出化したTTL-AEへと置き換え、最盛期には月産 20万台を生産した。

1960年代、カメラは大きな変革の時期を迎えていた。エレクトロニクスの導入である。まず露出の自動化からこのステップが踏み出された。ちょうどマイクロエレクトロニクス技術が変革の時期を迎え、それをうまく使って自動露出が実現された。エレクトロメカニクス(日本ではメカトロニクスと和製英語で呼ばれた)が日本機械工業のお家芸となるがその一番打者をつとめたのがカメラだった。
1973年秋に起こった第四次中東戦争に端を発する第一次石油ショックによる原材料の高騰と、それに続く不況のため、各社とも経営的に厳しい時代であった。キヤノンでは「オイルショックの反省から設計と生産技術両面からどれだけ安くなるかを検討」し、その答えを「電子化と、部品のユニット化による無調整化」に求めた。1948年、「制式研究会」を発足させて以来求めてきた生産の効率化を推し進めてきた成果であった。
AE-1は世界で初めてマイコンを組み込んだカメラで、設計は生産方式まで考えに入れてコスト低減をはかり、当時の常識を破る8万円という低価格をつけ、それまで一眼レフでは他社に遅れを取っていたキヤノンの戦略製品であった。発売後一年半で生産累計100万台を突破し大成功を収めた。改良機のAE-1プログラムと合わせて累計900万台という驚異的な生産台数を記録している。
カメラの性能はともかく、各社に衝撃を与えたのは、ボディ本体5万円という価格設定であった。キヤノンのシャッター速度優先機のキヤノンEFより2万5千円安かった。
同時期のライバルAE一眼レフのボディのみの価格は アサヒペンタックスK2(72,600円)、オリンパスOM-2(76,000円)、コニカニューT3(52,300円)、ニコマートELW(81,000円)、フジカST901(69,000円)、ミノルタXE(80,000円)、ミランダオートセンソレックスEE(51,000円)、コンタックスRTS(102,000円)などであった。
いち早く対抗製品を出してきたのが旭光学で、1976年にオリンパスOM-1より小さく軽いTTL開放測光、LEDによる定点合致式露出計を備えたアサヒペンタックスMX(48,000円)と、初級者向けに露出は絞り優先式AEだけにして、マニュアル露出を省いたアサヒペンタックスME(50,000円)を発売した。ニコンは1977年Ai化とともにニコンFM(57,000円)を発売して対抗した。

マスプロダクションとコストパフォーマンスの競争から、1976年暮れにミランダが倒産、1977年にはペトリが倒産。その後、興和がカメラから撤退、トプコン、マミヤ、フジカ、コニカなどが一眼レフから撤退した。

電子技術の塊のようなこのAE-1は、以後ぞくぞくと登場するビデオやCD、パソコンなど小型化していく家電の魁であった。カセットテープをカメラのようなセンスで小型化した製品で最初に大ヒットしたのはソニーのウォークマンだっただろう。
1970年代、当時の家電機器、特にAV家電では「ポストカラー問題」があった。70年代、家電業界はカラーテレビで潤うが、その後の戦略製品は何かが問題であった。その答えが「ビデオパッケージ(映像ソフト)」であった。70年代はICが長足の進歩を遂げつつあった。製品をICにより小型化するには、カメラのような小型で精密な機械を作るノウハウを手に入れなければならなかった。されまでの家電メーカーは下請けで部品を作り、それを組み立てるアセンブリーが中心だった。この時期を境に家電企業はスイス、ドイツからカメラ部品を作った実績のある正面旋盤、ジグボーラー、ジググラインダーなどの工作機械をそのまま輸入することになる。

[掲載文献]
カメラレビュー クラシックカメラ専科 №31 「キヤノンハンドブック」 P44、65
カメラレビュー「一眼レフの歴史とそのメカニズム」 P45
カメラレビュー・クラシックカメラ専科 №77 P30
日本のカメラ P93
カメラの歴史散歩道 P363
名機を訪ねて P399
めざすはライカ P271
マニュアルキヤノンの全て P68
MF一眼レフ名機大鑑 P251
国産実用中古カメラ・買い方ガイド100 P43
ノスタルジックカメラ・マクロ図鑑 Part1 P36
季刊クラシックカメラ6 キヤノン P18
写真工業 2006年9月号(Vol64 №689) P38
20世紀☆カメラ1950~2000 P52
神立尚紀 図解・カメラの歴史 P154
日本カメラ博物館「世界を制した日本のカメラ」 P15

[修理マニュアル]
ジャンクカメラの分解と組み立てに挑戦 P94