ドイツ・コダック社は1931年米国のイーストマン・コダック社とDr.オーギュスト・ナーゲル・カメラ工場が、ほぼ対等の条件で合併したことで成立した。当時の社名はコダックA.G/Dr.ナーゲル・ベルケである。
オーギュスト・ナーゲル博士はもともとドイツ4大カメラメーカーの一つコンテッサ・ネッテル社の創立者の一人であった。1926年4大メーカーの合併により創立されたツァイス・イコン社では技術担当理事となったが、1926年にシュツットガルトにDr.オーギュスト・ナーゲル・カメラ工場を設立し、自らの構想による個性的なカメラの製造を開始した。
しかし、第一次世界大戦敗戦国のドイツは世界大恐慌の影響を受け、不況が深刻化して、ナーゲル・カメラ工場も経営が苦しく、外部からの支援を必要としていた。これに対してイーストマン・コダック社は1927年にはドイツAGを設立してフィルム事業の展開を進めていたが、コダック社として高性能なカメラの開発拠点をドイツに求めていて、両者の思惑が一致したということである。
会社の規模としては巨大であった米国コダック社は、ナーゲル博士のそれまでの功績を高く評価して、対等のパートナーとして処遇、新会社の社長はナーゲル博士であり、ドイツ・コダック社における新型カメラの開発も博士主導で行われた。
設立当初は、ナーゲル・カメラ工場時代のカメラのメーカー名違いと、その改良型カメラを製造していたが、次に620判フィルムを使用する蛇腹折り畳み式スプリングカメラをいくつか世に送り出した。
そして1934年35mm判蛇腹折り畳み式小型カメラ「レチナ」が登場する。
レチナはナーゲル博士が初めて手がけた35mm判フィルムを使用する小型カメラであった。ナーゲル博士はコダック社と合併する以前に、ベスト版(127判)フィルムを使用する小型カメラとしてピュピレやランカを製造しており、ツァイス・イコン時代にもコリブリという名機を残している。
ナーゲル博士は、当時ライカやコンタックスといった最高級カメラ用であった35mm判フィルムを一般大衆化しようという構想を持っていて、コダック社との合併後に満を持して世に送り出したカメラがレチナであり、35mmフィルムの普及に多大な貢献をしつつ、その後大きく発展していった。
ナーゲル博士は第二次大戦中の1943年に亡くなるが、あとを継いだ一族のヘルムート・ナーゲルも戦後レチナシリーズを大いに発展させた。
しかし米国コダック社は1960年代後半から自社が開発した新しいフォーマット(インスタマチックなど)のカメラ製造に特化するようになり、このためドイツ・コダックのレチナシリーズも1969年のレチナS2(061)の生産終了とともに35年の歴史に終止符を打った。
(世界ヴィンテージ・カメラ大全 P48)