リコーフレックスの大成功で基礎を築いた。
大正8年(1919年)、わが国における純粋な科学研究と、その応用を目的に財団法人理化学研究所の設立。昭和2年(1927年)には研究の成果を実際の産業に応用するため理化学興業㈱が設立された。そこから分離独立したいわゆる理研コンツェルンの会社群の一つがリコーの祖、理研感光紙㈱である。印画紙のメーカーで、社長はその後長くリコーを育て、また戦後銀座三愛の経営にも当たる市村 清であった。
昭和13年(1938年)には光学分野への進出を企て、社名を理研光学工業と改めるとともに、旭光学工業(ペンタックスの同名の会社とは別物)を設立。旭光学の向島、大森の両工場ではカメラ、望遠鏡、測量機械ほか、さまざまな光学機械が生産される。
昭和11年(1936年)同盟国ドイツでベルリン・オリンピックが開催され、次期開催地が東京に決まっていたので、わが国ではオリンピックに対する関心が高く、カメラにはオリンピック・アドラーとかベスト・オリンピックなどの名が付けられた。いづれも大衆的な廉価製品で、カメラでは初めて通信販売や割賦販売を取り入れ、カメラの普及に大きく貢献した。
昭和15年(1940年)には理研光学の全部門を王子工場に集約するとともに、光学部門を新設してレンズの設計、研磨も行うようになり、カメラの一貫生産を達成した。
昭和17年(1942年)には時代相を反映して「護国」と名づけられたカメラを発売する。それはクロームのライカⅡ型をベスト半裁(3×4cm)にし、連動距離計とレンズ交換を取り除いたような、精密かつ高級なカメラであった。
終戦の翌年、昭和21年(1946年)GHQ(占領軍総司令部)の命で理化学研究所を解散し、理研コンツェルンも瓦解、理研光学はグループとの関係を絶って市村 清によって再建、経営されることになる。
昭和22年(1947年)に旭無線がカメラの生産を再開するが、戦後の第一号は16mmフィルムに10×14mmの画像を撮るサブ・ミニチュアのリコー・ステキーであった。このクラスとしては珍しくレンズ交換のできるもので、片手の手中で操作できるため犯罪科学研究所に「ハンケン」の名で採用され、犯罪捜査に活用された。ステキーはリコー16とともに帰国する米兵によりアメリカに持ち帰られた。
2年後、王子の理研光学の光学部門が再開され、そこで二眼レフの生産が始まる。
(日本のカメラ P13)