東京に対する強力なアンチテーゼ
昭和3年(1928年)田嶋一雄が日独写真機商店を設立。同商店は兵庫県の武庫川に工場を建てると、ドイツから技術者ビリー、ノイマンを招き、小型カメラの製造に着手。従業員数十名の小工場だが工作機械はスイス製を奢っていた。
翌年3月には第一号のベスト判のベースボード型ロールフィルム・カメラ、ニフカレッテを発売する。NIFCAはNichidoku Foto CAmeraのイニシャルを綴ったもので、ドイツではphotoともfotoとも書くのである。
ニフカレッテのボディは武庫川で造られたが、レンズやシャッターまではまだ自製できず、ドイツからさまざまなグレードのものを輸入して装着していた文字通りの“日独"混血であった。価格は20円から75円に及んだが、最上級モデルはヨーゼフ・シュナイダー社製のクセナー75mm F4.5レンズを、フリードリッヒ・デッケル社製の1~1/300秒のコンパー・シャッターに入れていた。
昭和4年(1929年)はニューヨークのウォールストリートから始まる大恐慌で、資金繰りに見舞われる。しかし昭和5年(1930年)には業績が上向く。
昭和6年(1931年)、日独写真機商店は資本金30万円で改組、モルタ合資会社と改名、大阪市内に本社を移した。モルタはMechanismus Optik unt Linsen von TAshimaを略したものである。この年ノイマンは帰国、昭和7年(1932年)にはバリオ型、コンパー型のシャッターの自製も始めた。昭和8年(1933年)にはイコンタ型の6×4.5cm判スプリングカメラのセミ・ミノルタと、マキナ型の6×9cm判クラップカメラのミノルタを発売。ここに初めてミノルタの名が登場する。それはモルタのドイツ名をMachinery and INstrument OpticaL by TAshimaと英語に読み替えたもので、「稔る田」にも掛けていた。
昭和9年(1934年)にはミノルタベスト、翌年にはミノルタシックスを出す。いづれもイコンタに近いものだが、ボディは総体ベークライト製でレンズ前板を真っ直ぐに引き出す方式だが、革の蛇腹は持たず、ベークライト製の角パイプが望遠鏡のように2段に伸縮するというユニークな剛体蛇腹を持っていた。
昭和11年(1936年)には尼崎工場を建設、ローライコードを基本にイコフレックスのデザインをミックスした二眼レフ、ミノルタフレックスの生産が開始される。それまでレンズを外注に頼っていたミノルタだが、昭和12年(1937年)に堺工場を建設、レンズの研磨を開始する。そこでは海軍の要請により双眼鏡も生産された。
同じ年、モルタ合資会社は再び資本金150万円で株式会社に改組され、千代田光学精工㈱になる。当時の日本は軍国主義一色に塗り替えられつつあり、カタカナの社名は憚られたためであった。
同時にミノルタフレックスや距離計連動のオートセミミノルタ、マキナⅡ型に準じる距離計連動のオートプレスミノルタを発表した。
ミノルタは第二次大戦前、既にさまざまなサイズ、形態のカメラを生産する総合メーカーに発展、中国大陸や東南アジアへの輸出も始められていた。
戦後生産再開の第一号は、昭和21年(1946年)の6×4.5cmスプリングカメラのミノルタ・セミⅢA型であった。その後もミノルタは16mmのサブミニチュアからレンズシャッターとフォーカルプレーン・シャッターの35mm機、セミ判スプリングカメラ、6×6cm判二眼レフ、さらには35mm一眼レフ、126コダパック・フィルム、110フィルム、APSフィルムを使うカメラまで、およそありとあらゆる判型、形式のカメラを生産する。
ミノルタが戦後になって初めて手掛けたのが35mmカメラである。まず昭和23年(1 948年)にライカ型のフォーカルプレーン・シャッター付きの距離計連動機ミノルタ35を出す。ライカのスクリューマウントを持つライカコピー機だが、初めから開閉式の裏蓋やセルフタイマー、ホットシューなどを持つ点で他のライカコピー機より一歩進んでいた。またニコンⅠ型より1ヶ月早く、24×32mmのニホン判を採用した。
(日本のカメラ P123)
コニカとミノルタは2003年8月経営統合によるコニカミノルタホールディング㈱のもとの写真総合メーカーとして2004年4月にコニカミノルタフォトイメージング㈱がスタート
したが、2006年3月には、そのカメラ事業を終了することになった。
(写真工業 2006年5月 Vol.64 №685 P48)