昭和9年(1934年)、乾板やフィルム、印画紙などの感光材料の生産を目的に設立。
翌年、早くも有孔35mmフィルムの生産にも成功。
昭和13年(1938年)末、光学ガラスからレンズ、カメラに至る一貫生産が企画され、小田原工場内に精密機械工場を建設、翌年本社内に光機部、昭和15年小田原工場に光学ガラス工場を併設して、カメラ生産の態勢を整えた。しかしその頃既に戦線急を告げたために民生用のカメラが造られることは無かった。
終戦の昭和20年10月に、光学部門は光学ガラスの製造を開始、営業写真館向けの大判用レンズが造られ、同時に小型カメラ用の75mm F3.5レンズの試作も開始された。
昭和23年(1948年)、6×6cm判スプリングカメラ、フジカシックスが発売される。それは、鉄板プレスのボディに、テッサー・タイプのフジ75mm F4.5レンズと、1/200秒までのロータス・シャッターを付けたものであった。占領軍によるロールフィネム生産の全面解禁の直後に、急遽造られたものなので、不具合が多く、次々に改良型が造られた。
戦時中の昭和19年(1944年)、大宮で主に双眼鏡などを造っていた工場を買収、富士写真光機㈱と改称していた。そこに小田原の精機部門が移され、戦後のカメラ製造は主に同社で行われることになった。その結果、小田原では主としてレンズの研究試作が行われることになり、そこでは昭和25年(1950年)7月、背景の描写を改善する目的で非球面レンズを発明、試作に成功する。それは昭和30年(1955年)特許庁長官の表彰を受けた。
同じ昭和25年には、その後写真店やアマチュアに愛用され、ロングランとなる富士引伸機B型が登場。それに用いられる優れた引伸ばしレンズのフジナーE群も発売された。
一方感材部門では昭和23年(1948年)、ブローニー判のカラーフィルムを発売。次いで35mm判カラーフィルムも発売された。
昭和26年(1951年)にはバーディーの名でスライドプロジェクターも製品に加えられた、写真に係るあらゆる製品を手掛けている。
昭和26年(1951年)には、小田原工場の窯業部門で光学ガラスの溶融に初めて白金のルツボを使用、さまざまな特殊ガラスへの道が開かれた。そこでは新種ガラス工業化の補助金を受けて富士写真フィルム、日本光学、小田原光学、千代田光学、小西六の5社の協同研究が行われ、翌年稀元素を含む新種ガラスの大量生産技術が確立された。
(日本のカメラ P106)