2019/10/17

旭光学工業

一眼レフを世界の標準にしたペンタックス

大正8年(1919年)東京市豊島区西巣鴨にメガネを作る小工場として設立された旭光学合資会社が旭光学工業の発端である。4年後には映画の映写レンズの製造に先鞭をつけ、AOCO(Asahi Optical CO.)の映写レンズは次第に知られるようになる。
昭和に入ると盛んに国産奨励を唱えた浜口内閣の方針に賛同、昭和6年(1931年)小西六の日本初の量産ロールフィルム・カメラの企画に参加し、パーレット用の単玉と8年型パーレットに装着されたオプターF6.3レンズを生産する。
戦前ではこのほか千代田光学のミノルタフレックスのためにテッサー・タイプのプロマー75mm F3.5 レンズも生産している。
第二次大戦中はカメラどころではなく、旭光学も陸・海軍の管理工場となり、小は13年式双眼鏡から大は軍艦の測距儀に至る各種光学兵器の生産に駆り立てられた。昭和20年の東京大空襲により工場の主要部分を消失。終戦と同時にいったん解散するが、焼け残りの工場を拠点に昭和23年(1948年)旭光学工業㈱が再建され、輸出用双眼鏡の生産を開始する。超小型双眼鏡のジュピターは海外で好評を博し、昭和26年(1951年)までに10万台を輸出する成功作となった。戦時中はヘキサーレンズ、プロマーレンズなどを小西六、千代田光学(ミノルタ)などの外注で製造していた。
戦後カメラ用レンズの生産が開始され、テッサー型75mm F3.5 のタクマーは鈴木光学のプレスバン、高嶺光学のミネシックスなど、6×6cm判スプリングカメラに装着されて好評を博した。また1950年頃のマイクロカメラブームの時は大手メーカー三和商会製のマイクロカメラシリーズのレンズの生産を一手に引き受けていた。
タクマーというレンズ名は、旭光学の出資者の一人団 琢磨に由来するといわれる。また琢磨とは玉を擦り磨くという意味もある。
戦後の混乱が収まると、旭光学社内にはレンズばかりでなくカメラを一貫生産しようという機運が高まり、研究開発が開始される。ターゲットは日本ではまだどこでもやっていない35mm一眼レフに絞り込まれる。
この段階でドイツ、ドレスデンのKW(カメラ・ヴェルクシュテッテン)社が1938年に出した、プラクティフレックスが参考にされたことはほぼまちがいない。
こうして昭和27年(1952年)に発売に漕ぎ着けたのが、わが国初の35mm一眼レフ、アサヒフレックス(後にⅠ型と呼ばれる)である。
1954年一眼レフ史上きわめて重要な発明であるクィックリターン式ミラーを備えた「アサヒフレックスⅡB」型が登場する。
1957年ペンタプリズムを搭載し、アイレベル式ファインダーとなったアサヒペンタックス(後にAP型と呼ばれる)が発売された。
1958年にはシャッタースピードを最高速度1/1000秒としたアサヒペンタックスK型、翌1959年には最高速度を1/500秒に押さえた下位機種で価格が4割近く安価となったアサヒペンタックスS2型が発売され、大変な人気機種となった。
1960年のドイツのフオトキナに、世界最初のTTL測光方式を採用したアサヒペンタックス・スポットマチックの試作機を発表した。その後1964年に測光方式を改良したアサヒペンタックスSP型が登場する。
1969年にはアサヒペンタックス67をバヨネット式マウントで発売。
1975年バヨネット式マウント、アサヒKマウントを採用したアサヒペンタックスK2が登場。このカメラはそれまでの横走り布幕シャッターから、セイコーと共同開発した金属膜縦走りの電子制御セイコーMFシャッターが搭載され、受光素子にSPDを採用した全自動露出機であった。同時に下位機種であるKX、KMも発売された。
ところが今まで好調だった販売が、マウントの変更を嫌ったユーザーによって、またオリンパスなどの主導により35mm一眼レフカメラの小型化が進行していたこともあり、急激に低迷する事態に陥った。
この事態に翌1976年に一気にカメラを小型化した完全マニュアル機のアサヒペンタックスMXと絞り優先AEを採用したMEを登場させ挽回をはかった。
1979年から旭光学はカメラからアサヒの名を外し、ペンタックスと呼ぶようになった。
フィルムカメラからデジタルカメラに写真界の潮流が変わりつつあった2002年にペンタックス㈱に社名が変更になり、2007年8月にHOYA㈱の子会社となって東証一部上場を廃止、独立した企業としての歴史を閉じた。2011年7月にデジタルカメラ事業はリコー㈱に譲渡され、現在はリコーの子会社であるペンタックスリコーイメージング㈱としてカメラ事業を継続している。
(日本のカメラ P113 世界ヴィンテージ・カメラ大全 P248
カメラレビュー8「一眼レフの歴史とそのメカニズム」 P127)