2019/10/18

Ernst Leitz

[ライカの渡来に関して]

1925年(昭和4年)8月19日ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周の途次霞ヶ関飛行場に着陸し、船長のフーゴ・エッケナーがタラップから降りてきたとき、彼の胸に縦型距離計を装着したライカⅠ型(A型)が吊るされていたことがニュース写真に撮られ、新聞に報道され、カメラファンには飛行船よりカメラのことで持ちきりになった。
既にドイツ製カメラの優秀性は日本で広く知られていて、そのドイツの最新カメラがライカということで、カメラファンの耳目を引いていたときであった。その中に、後のライカの名手といわれた木村伊兵衛もいて、この時の光景をニュース映画で見てライカを買う動機になったという。
「ツェッペリン伯号」のエッケナー船長が持参したカメラは決して日本初のお目見えではない。既に1926年(大正15=昭和元年)には、ライツ社日本代理店のシュミット商店にライカⅠ型(A型)が入荷している。

ライカが日本に最初に入ってきたのは、ライカ発売年の1925年ドイツから帰国した陸軍軍人の石原莞爾によって同年の10月にもたらされた。シリアルナンバー500番台のライカⅠ型(A型)と縦型装着距離計、格納ケース、拡大焼付け器、フィルム現像器などのライカカメラ一式であった。

酒井修一「ライカとその時代」 P147

ライカの価格

1938年(昭和13年)「アサヒカメラ」誌6月号によると、
ライカⅢa ズマール50mm F2 付き 850円
コンタックスⅡ ゾナー50mm F2 付き 1345円
〃 ゾナー50mm F1.5 付き 1760円
帝国大学卒の陸海軍少尉の給料が、月額70円であった。コンタックス一台の価格で東京山手線内の30坪の家が一軒買える といわれていた。
図解・カメラの歴史 P54