フォクトレンダー社で働いていた2人の人物、パウル・フランケとラインホルト・ハイデッケが1920年にフォクトレンダーと同じブラウンシュバイクに新しいカメラ会社を設立した。それが一般に「ローライ」の名前で知られるカメラを製造してきたフランケ&ハイデッケ社である。フランケは営業面、ハイデッケは技術面の専門家で、最初はステレオカメラ「ハイドスコープ」の製造・販売からスタートした。
ハイドスコープはガラス乾板を使用したが、1926年にはロールフィルムを使用する「ローライドスコープ」を開発した。ローライとはRollfilm-HeideckeのRollとeiからの造語で、以後フランケ&ハイデッケ社の全製品にローライという名前が冠されることとなった。
ステレオカメラは第二次世界大戦まで販売が続けられたが、カメラとしては特殊な分野であるため営業的に安定せず、一般的なカメラの開発が必要となっていた。
ハイデッケは1929年世界で最初の金属製二眼レフカメラ「ローライフレックス(オリジナル)」を世に送る。これがビューファインダーを見たまま速写できる点が高く評価され、好調なスタートを切る。
ハイデッケはその後も改良を続け、1931年には「ベビーローライフレックス」でフィルムの自動巻き止め機構を開発、1937年にはフィルムの厚さを検知して自動的に一コマ目をセットするフルオートマット機能を開発した。この頃には二眼レフカメラは人気が高まり、ツァイス・イコンやフォクトレンダーなどさまざまなメーカーから登場したが、その性能と品質によりローライフレックスは二眼レフのトップカメラとして揺ぎ無い地位を確立する。同時に廉価版の「ローライコード」も販売、1938年までに30万台のカメラを世に送り出し業績も好調だった。
第二次世界大戦で工場設備の2/3が破壊されたが、幸運にもブラウンシュバイクは西ドイツに位置したため、フランケ&ハイデッケ社は急速に復旧した。戦前同様ローライフレックスは二眼レフの最高峰の名を欲しいままにしたが、1960年代に入ると二眼レフの将来にかげりが見えてきたこともあり、1964年に出「ローライ16」、1966年には「ローライ35」を世に送る。また「ローライフレックスSL66」で6×6cm判一眼レフにも進出を果たす。
しかし他のドイツカメラメーカー同様、日本からの攻勢に苦しめられるようになり、低コストでカメラ製造を行うために1970年にシンガポールに現地法人を設立、カメラ製造の一部を移管するようになった。同年には「ローライフレックスSL35」で35mm一眼レフへ進出するが、すでに市場は日本勢に席巻されている状況にあった。
1972年にはカメラ製造から撤退したツァイス・イコン社からフォクトレンダー・ブランドを譲り受け、「フォクトレンダーVSL1」以後の35mm一眼レフや35mmコンパクトカメラも平行して開発、販売した。しかしついに1981年フランケ&ハイデッケ社は業績不振で倒産してしまう。
同年新しい資本のもと、ローライ・ヴェルケの廃墟の中から小さなローライ・フォトテクニック社が誕生、生産はドイツ国内に戻された。
1987年に光学会社のシュナイダーがローライ・フォトテクニック社を持ち株会社から買取る。1995年には韓国のサムソンがローライ・フォトテクニック社の株を買占める。しかし、1999年末のアジア不況の際に、ローライ・フォトテクニック社の従業員グループがサムソンの持株を買い戻し、現在独立したメーカーとしてスタートした。
ローライの製造元は1980年代二転三転したが、2005年にローライ・プロダクションが独立し、創業当時のフランケ&ハイデッケに社名を変更し、2.8Fを継承した現行品を製造している。
現在はローライ社として存続し、「ローライフレックス2.8FX」や世界初の6×6cm判オートフォーカス一眼レフである「6008AF」などのカメラを製造し続けている。
(世界ヴィンテージ・カメラ大全 P71
魅力再発見・二眼レフ P68)