イハゲー社はオランダ人のヨハン・シュティーンベルゲンが、1908年に当時ドイツカメラ産業の中心地ドレスデンに移り、エルネマン社で働き、特許を取得するなどカメラ製造のノウハウを身に着けた後、1912年にドレスデンに設立した。
1913年に社名を短くするため頭文字を取りIhageとし、響きをよくするためにeをもう一つ付けてIhagee Kamerawerk G.m.b.H(イハゲーカメラ製造有限会社)となった。1917年には小型木製カメラを製造していたエミール・エングリッシュと知り合い、1918年に工場を合併して新会社イハゲー・カメラベルク・シュティーンベルゲン社を設立した。
1922年にドレスデンのカメラ工業の中心地であるシュトリーゼンに500人規模の工場を新築して移転。輸出も伸びて事業規模は拡大した。また1929年にヨハンはドレスデンの名誉オランダ領事に任命され、さらに1000人規模の大工場を増築したが、世界恐慌の影響で業績が悪化、従業員を300人ほどに減らさざるをえなくなった。この苦境の時期にキネ・エキザクタなどの画期的なカメラの開発を行ったが、事業は発展しなかった。第二次大戦が始まると事業の継続は難しくなり、1940年にはカメラ製造を中止、1942年にはヨハンがオランダ国籍であったためイハゲー社はオランダ資本とされ、敵国財産法によりヨハンは会社から追放された。ただし工場の土地と建物や機械の使用料はヨハンに支払われ、オランダ領事の地位も変わらなかった。だがヨハンの妻がユダヤ人であったため、ユダヤ人迫害が厳しくなった1943年にヨハンはドイツ国外に亡命した。1945年の連合軍によるドレスデン大空襲でイハゲー社の工場は全壊してしまう。
戦後ソ連軍の支配下となったドレスデンでは、カメラ製造の完全な解体と接収が実施されたが、イハゲー社はオランダ軍事顧問団の所有権の主張により、例外的にこれを免れた。また東独国有化もなされなかった。
戦後まもなくキネ・エキザクタの生産が開始され、また1946年にはソ連への戦争賠償として2万台のキネ・エキザクタの生産を行うことになり、生産体制が整えられていった。
1040年代後半エキザクタの輸出は大幅に伸張し、海外の販売網が整備された。
1951年東独における外国籍企業の管理方法が変わり、それに伴い社名がイハゲー・カメラベルクAGi.Vとなった。
1959年イハゲー社の株主総会で本社所在地を西ドイツのフランクフルト/マインに移転することが決まり、1960年にはイハゲー・カメラベルクAGが登記された。以後この東西2社の間で法律上の係争が続き、西側諸国への輸出用モデルにはエキザクタという名前を使わないようになるなどの影響が出た。
1960年、東独の主たるカメラ製造企業が合体した国営企業VEBペンタコン・ドレスデンが成立したが、以後イハゲーにその影響が現れる。1964年にイハゲー社の開発部門はすべてペンタコン社に移管され、更に1968年には宣伝と顧客サービス部門もペンタコン社に統合されたため、イハゲー社は製造のみを行う会社となってしまった。しかしまだカメラ自体の製造数は年間10万台以上もあり、エキザクタというカメラは全世界で大きな支持を受けていた。
しかし1970年ついにコンビナートVEBペンタコン社に実質吸収されてしまい、イハゲー社は消滅した。
西側イハゲー社は西ベルリンで活動を続け、エキザクタ・レアルなど数機種を出したが、1976年に会社は消滅した。
(世界ヴィンテージ・カメラ大全 P84)